博士課程修了記念エッセイ(矢吹)

 

秦光平くんに「博士課程後期修了記念のエッセイを書きましょう」と誘われました。
そこで、小学生もすなる読書感想文といふものを大学院生もしてみんとてするなり。

 

読書感想文を書いてみる

広島大学大学院文学研究科博士課程後期
矢吹文乃

 小学生のころ、私は読書感想文を書くのがものすごく嫌いだった。1学期の終業式の日に「青少年読書感想文全国コンクール」の課題図書のチラシが配布されると、苦いつばがせりあがってくるようだった。そもそも、読書が好きではなかった。作文も苦手だった。教師の口から「原稿用紙3枚以上、絵本は禁止」という言葉が出ないように心底から祈っていた。

 高校2年生のときに太宰治にハマって、将来は小説家になろうなどと夢見はじめた。太宰の文体を真似することで小説らしきものは書けるようになったが、読書感想文はやはり苦手だった。自分の体験に引きつけてものを見るとか、思いの丈を書き殴るとかいうやりかたがどうにもぴんとこなかった。いま書いている文章も本人は真情をこめて書いているつもりなのだけれども、他人の目で読むと冷めていると思う。感想文を書くときもこんな具合なので入選したことは一度もない。

 しかし、読書感想文を書けなくても文学博士にはなれる。博士課程を修了して、いましみじみそう感じている。「読書感想文がへたくそでも、文学研究はできるよ」と教えてやったら、高校生の私は喜ぶだろう。正直、うまい読書感想文が書けないことは私にとってかなりコンプレックスだったから。

 それにしても、いったい読書感想文とは、どういう能力が備わっていれば書けるものなのだろう。私は大学で文学研究の方法を学び、読解力を培ったけれども、それらの能力で太刀打ちできるシロモノなのか、読書感想文は。

 というわけで、読書感想文を書いてみるぞ。と、宣言しただけでへんな汗が出るほどには、私は読書感想文を畏れている。原稿用紙3枚ぶんの文章を書き飛ばすくらい屁ともないはずなのに、絵のない本も(歯を食いしばれば)読めるようになったのに、赤コーナーでグローブを締め直している読書感想文と目があうと猫背になってくる。

 母に相談したら「読書感想文との勝負は本選びの段階からはじまっているぞ」という生々しいアドバイスをもらった。ひとまず青空文庫をひらいて、「太宰治」の作品一覧からなるべく文字数の少ない作品を探す。既に及び腰である。

 「小説の面白さ」というとても短いエッセイがあったのでこれにする。タイトルから推察するに文豪・太宰治が小説の面白さについて語ってくれるはずだから、適宜引用して「なるほどなるほど」とテケトーに相槌を打っていれば原稿用紙が埋まるに違いない。それに、小説の面白さがわかれば、おのずと読書感想文も書けるというものだ。

 冒頭。

 小説と云うものは、本来、女子供の読むもので、いわゆる利口な大人が目の色を変えて読み、しかもその読後感を卓を叩いて論じ合うというような性質のものではないのであります。

 なるほどなるほど。ちょっとオモテ出ろや。

 〈本来〉って、なんだ。小説の本来あるべき形なんて、誰が決めたんだ。世間。いや、あなたですよね。世間とはあなたのことですよね。いつだったか、ご自分でおっしゃっていたじゃあありませんか。

 〈女子供〉と〈大人〉が対置されているのも気に入らねえ。これではまるで、大人になれるのは男だけで、女は大人になれないみたいでないの。女は大人になれないんですか。ピーター・パンは男だぞ。

 あと、卓を叩いて論じ合うことの、どこが悪い。読者の勝手ではないの。小説の読みかたを、作家が決めるんですか。決める権利があると思うんなら、すべての作品に「※読者のみなさまへ。この作品の読後感について、卓を叩いて論じ合わないでください。作者からのお願いです。」と注意書きしておいてくださいよ。そうしたら私が「太宰治作品のパラテクスト分析――注意書きに注目して――」という題目で学会発表を打ちますから。発表後の質疑応答では、文学研究者たちがあなたの書いた注意書きの持つ意味について卓を叩いて論じ合うでしょうよ。ざまあみろ。

 ひとまずここまで書き殴ってみて、これは“ブチギレお気持ち表明”ではあるけれど読書感想文ではないなと思った。博士課程を修了しても、やっぱり私は読書感想文を書けないままのようである。

 読書感想文のセオリーに則れば、このあと私は「太宰の文章から読みとれたミソジニー」を発展させて「女性研究者である私が過去に受けた性差別」のエピソードを書き綴るべきなのかもしれない。しかし、この冒頭文を読んだとき、私はそんなエピソードは思い出さなかった。私が思い出したのは、上野千鶴子『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波書店、2009年)に載っている図だった。だが、その図はたんに思い出されたというだけで、私自身の感想ではない。

 私自身の感想がこれっぽっちも出てこない、この状況自体は幼いころの思い出とリンクしていて懐かしい。小学生のころから、私にできたのは書いてあるものをそのように読むことだけだった。トラックに轢かれたポンちゃん*1の血まみれの姿を鮮明に想像することはできても、〈つくったお話ではなく、ほんとうにあったお話ですから、むねが、じーんとあつくなります〉というカバーの文言の意味するところはまったくわからなかった。

 では小説を読んでも感動しないのかというと、そういうわけでもない。小説の「うまさ」は私を感動させる。オハナシがどれだけくだらなくても、文章がうまいと、頭がきりきり痛くなるような興奮を覚える。

 例えば、太宰の文章はうまい。こんなふうにサラリーマンの1日をたった5文にまとめて、そのうえ軽快な語り口でくすりと笑わせてくれる。

たとえば家庭に於いても女房が小説を読み、亭主が仕事に出掛ける前に鏡に向ってネクタイを結びながら、この頃どんな小説が面白いんだいと聞き、女房答えて、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」が面白かったわ。亭主、チョッキのボタンをはめながら、どんな筋だいと、馬鹿にしきったような口調で訊ねる。女房、俄かに上気し、その筋書を縷々と述べ、自らの説明に感激しむせび泣く。亭主、上衣を着て、ふむ、それは面白そうだ。そうして、その働きのある亭主は仕事に出掛け、夜は或るサロンに出席し、曰く、この頃の小説ではやはり、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」に限るようですな。

 私はこのくだりを読んで、「岸田國士の戯曲みたいだな」と思った。「亭主が仕事に出掛ける前に鏡に向ってネクタイを結びながら」という箇所なんかもろにト書きだし、「亭主、上衣を着て、ふむ、それは面白そうだ。」という文も、

  亭主 (上衣を着て)ふむ、それは面白そうだ。

 と直せば、頭書きと台詞になる。戯曲っぽく、役名と台詞だけで書こうという意識が見える。にもかからわず亭主と女房の台詞がかぎ括弧で括られていないのは、恐らく「誰がために鐘は鳴る」につけているかぎ括弧と混ざらないように気を遣っているからだ。

 文章に隠されたそういう工夫を見つけ出して、「いい文章だなあ」と感心することなら得意だ。しかし、そういう種類の感心を並べ立て感想文を書くと、論文になってしまう。だからこそ、読書感想文のトロフィーよりも先に学位記を手に入れてしまったわけである。

 「太宰の文章から読みとれたミソジニー」を発展させて「女性研究者である私が過去に受けた性差別」のエピソードを書き綴っていくことも、できなくはない。けれども、それは私にとっては誠実なやりかたではない。というのも、作品の表現を無理やり自分の体験に引きつけることは部分の拡大に過ぎないからだ。「小説の面白さ」の冒頭文にはたしかにミソジニーが滲んでいる。しかし、あとの文章を読み進めていくと、筆者・太宰が本当に揶揄したいのは小説をありがたがって読む女性のほうではなく、読みもしない小説について知ったような口をきく男性のほうだということがわかる。そういった文章の屈折やねじれを無視して私の体験を書くための土台の形にならしてしまうのは、太宰にも、太宰の作品にも悪いような気がする。

 文学は私如きに引きつけられるように都合よくはできていないし、私の人生も文学如きに引きつけられるほど都合よくはない、と思う。文学はただ傍らにあるだけだ。ぶっちゃけどうでもいいものなのだ。人生をかけてまで読まなくていい。読んだからといって、必ず感動する必要はない。それどころか、なにも感じなくたっていいのだ。太宰も書いている。

 余談のようになりますが、私はいつだか藤村と云う人の夜明け前と云う作品を、眠られない夜に朝までかかって全部読み尽し、そうしたら眠くなってきましたので、その部厚の本を枕元に投げ出し、うとうと眠りましたら、夢を見ました。それが、ちっとも、何にも、ぜんぜん、その作品と関係の無い夢でした。あとで聞いたら、その人が、その作品の完成のために十年間かかったと云うことでした。

 太宰の言うように、人生を変える作品なんてそうそう転がってはいはしない……と、書きかけて、私が文学部への進学を決めたきっかけを思い出した。高校2年生の6月、下校中の電車のなかで、あまりにも暇だった私は電子辞書に入っている「日本文学1000作品」というアプリをひらいた。そうして、羅列された知らないタイトルのなかから、教育テレビの「にほんごであそぼ」で見てなんとなく知っていた太宰治の「駈込み訴え」を読んだ。

 なんじゃこりゃ。すげえぞ、太宰治って人は!

 それで、文学部を受験することにした。人生を変える作品もないわけではなかった。待てよ、ということは、「駈込み訴え」で読書感想文を書けばよかったのかしら。あー、でもきっとそうしていたら、私はこんなくちゃくちゃのエッセイなんかではなくて、もっとちゃんとした論文を書いてしまっていただろうなあ。

 それはそうと、「夜明け前」にかぎ括弧がついていないのは単なる誤植だと思います。

 

【参考文献】
太宰治「小説の面白さ」青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1604_18107.html(最終閲覧日:2024年3月17日)
上野千鶴子『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』岩波書店、2009年

*1:中村ただし『生きるんだポンちゃん』(旺文社、1980年)に登場するタヌキ。