2022年7月26日研究会報告

 こんにちは、3年の田中です。突然の大雨もさることながら、外を歩く時に見える背の高い入道雲や、キャンパスに響く蝉の声に、夏の盛りを感じる日々です。

 

7月26日研究会報告

 7月26日の研究会は、6月21日に第1回目が開催された、「連続講演 三島由紀夫『近代能楽集』全8作を読む/観る/語る」の第2回公演でした。今回は、「綾の鼓」について、関さんにお話を伺いました。

 前回同様、関さんが演出された「綾の鼓」の録画を視聴し、参加者の質問にお答えいただきました。

 そもそも『近代能楽集』の8作品の舞台は、2本ずつ4回上演されたということで、前回の「邯鄲」と「綾の鼓」は1回の公演で上演されたものだったそうです。そのため、舞台装置は「邯鄲」のものをそのまま引き継ぎ、外に溢れた緩衝材をプールに片づける岩吉の姿から、「綾の鼓」が始まっていました。そんな場面から始まる「綾の鼓」について、関さんは「「邯鄲」とりもトリッキーな演出をしている」と仰っていました。

 そんなコメントに違わず、戯曲からは想像できないような「綾の鼓」が舞台の上に表現されていました。桂の木を用意するのではなく、加代子役の方に二役目として充てていたり、綾の鼓を、「邯鄲」でも使用していた木の板で表現したり、亡霊が鼓を打つ場面を、釣り竿で吊るした木の板を打ち合わせるという表現にしていたりと、予想もできない演出で、終演まで惹きこまれました。

 質疑で印象に残ったのは、やはり亡霊になった岩吉が鼓を打つシーンの演出に関するものでした。まず木の板を利用した理由としては、木の板を手で打つだけでは音が鳴らないが、木の板どうしで打つといい音が鳴ると気付いたことがきっかけだったそうです。また、「俳優」という存在は、いい音を鳴らしたい欲求があるが、いい音を鳴らすことが非常に困難である、という構図が岩吉に重なるのではないか、というイメージがあったそうです。さらに前回同様、使用された楽曲についての質問も上がり、華子役の役者さんが大好きなポルノグラフィティの曲を使用することで、華子が別の者に夢中であるという演出を狙った、と仰っていました。

 前回の公演の際にも感じたことなのですが、戯曲をテクストとして広く深く解釈する私たちとは、全くアプローチが違う世界なのだなと痛感しました。また、質疑応答でお話されていたことから、役者さんにどのように演じさせるか、というのをすごく意識されているのだろうなと、ここ2回の公演でお話を聞いて感じたので、次回以降、積極的に質問していきたいと思います。