修了記念エッセイ(安田)

 


 まさかまだエッセイが投稿されるとは思われてなかったでしょう。
 みなさん締切ギリギリの投稿になってしまったことを悔やんだり、悪癖だと言ったりしている中で、本物の遅刻を見せてしまっています安田です。3年生からは(現4年生の方々)学期区切りまでに投稿を!とご連絡頂いておりましたが、新年度が始まっています。なんならもう書かなくても良いかな?と思ったりしましたが、新学期の投稿がまだだったので(もし私の投稿があるかもしれないと気を利かせて新投稿を送らせてしまっていたら申し訳ありません)会社の昼休憩時に毎日ちまちまと書き進めました。
 ずっと、「こいつ(太宰)は締切守らないのに、なんで私は締切に間に合わせようと苦しんでるんだろう」って思いながら太宰の研究していました。ここで本物の遅刻をかまし、太宰に対抗します。

 


何を書いたら良いか、よくわからなかったので、よくわからないものについて書きました!


よくわからないもの

                                                               

広島大学大学院人間社会科学研究科博士課程前期

                                                                 安田 和愛

 


 現代文学研究会に所属してみて、どこかずっと負い目を感じていた。周囲の皆様方があまりに本を読むからだ。もちろん私は読書も本も苦手ではない。長距離の移動になると、必ずと言っていいほど本を持ち出して移動時間は読書をするし、読むスピードもまぁ遅くは無い。「人よりは読む方」である。という自認であった。
でも現代文学研究会に所属してからは「いやいや、本とか全然読まないです!」と、これまでの自認が崩壊した。皆様方に比べるまでもなく本を読まない。開いていただいた追い出しコンパの際に進撃の巨人が全巻買った状態のままあるという話をしたが、今もそのままである。なんと先日、友人達連名で「安田様はご申し込みいただいておりませんが、ワールドトリガーの全巻セットがご当選しました」という怖い手紙と共に『ワールドトリガー』が全巻届いた始末だ。こちらについては、申し込んでもいないのに「※6ヶ月以内に感想が届かなかった場合は、全額負担していただくので予めご了承ください」という添え書きまであった!ギリギリ悪質!

新居に本棚がまだ無いため、ほとんどの本がダンボールにしまい込まれてクローゼットの中にいる。

大学に進学して気がついた。

文学部、日文を専攻したはいいが、別に私の人生の大部分を、読書が占めているわけではなかったのだ。

それでも、本は好きだし、本を読むのが好きな人のことも、好きだった。研究会の人たちが、楽しそうに本の話をしているのを聞くのは最高の時間だった。しかし、楽しそうに好きな本の話をする様子を見て、私はそれになれないとおもった。

人がどのような心持ちで本を読んでいるのかは知らないが、幼い頃から私は、情報収集のために本を読んでいた。伝記や啓発本、図鑑などに関わらず「このような状況に陥った人間の感情処理の一例」として物語を消費していた。
だから、初読の感想共有が苦手だった。登場人物に共感するわけでもなく、本当に何を言えば良いのかよくわかっていなかった。

 人はみな己の主観で生きている。私自身、主観が他者とズレる経験が多く、一時期「人の気持ちがわからない!」と落ち込むこともあった。今でも人の気持ちはわからないが、大学で過ごした6年間を経て人の気持ちは誰にもわからないものである。ということをはっきりと知って別に悩むことも無くなった。
 「世間一般」という言葉があるが、人の気持ちがわからない私からしてみれば、困った概念だった。だからこそ、物語は様々な状況に陥った人間がどのように感じ、どう行動するのかを教えてくれる指南書であり、私は人らしく生きる引き出しを増やすためにそういった物語を読んで「なるほど」と思っていた。

 中学時代、太宰の「人間失格」を読んだ。もちろんよくわからなかった。しかし、それで書いた読書感想文が適当な賞を頂いたことは覚えている。
 はっきり言うが、太宰治も「人間失格」も、別に好きではない。太宰治と私は相性最悪である。

 ではなぜ、私はまず卒論の題材に太宰を選び、そこで飽き足らず修士にまで進学して太宰と向き合う時間をとったのか。シンプルに太宰のことが、よくわからなかったからだ。
 
この「よくわからない」は、太宰治という人物や作品の内容に対してでは無い。何故この作家、作品が愛され、残り、私の人生にまで届いたのかという部分だった。

 だから、大学では太宰をやろうと思った。
唯一、自信を持って気に入っていると言える作品は、太宰治の『駈込み訴え』であった。しかし、人になぜ好きなのかと問われた際に「なぜ好きなのか、よくわかりません」と答えるしかなかった。だって、よくわからないからだ。

こうしてみると、私の読書体験や研究の大半は「よくわからない」から始まっている。


 私の人生経験の乏しさだけでなく、浮かび上がる感情を表現する語彙の乏しさが「よくわからない」を産んでいるのだろうと思う。

 大学生活で、多くの言葉を学び、読解の方法を学び、入学前に抱いていた疑問に対して、少しは答えを持つことができているように思う。そして、「よくわからない」などというぼんやりとした言葉を使うのは正直気が引けるなと思えるところまで来た。 
 しかし、この曖昧な感情が私をこの場所へ導いてくれた。未だに本はそこまで読まない。初読の感想を伝えるのも苦手だ。それでも、この数年間で「よくわからない」のも、悪いものでは無いなと思えた。ここまで文字数を使って別に大した話もできていないが、元から大した悩みも得たものも無いのであろう。それでも、何を書けば良いかわからなかった今、私はこの話題を選んだということは、きっと私にとって切実な経験だったのだろうと思う。


怪文書をブログに残すのが、とても苦しいですが、寝て起きたら忘れるので大丈夫です。現代文学研究会でお世話になった方々への感謝はずっと胸に刻ませていただきます。

最後にありえない話ですが、胃腸炎で入社式に行けなかった新卒です。バリバリ働きはじめました!まだ人生に入社式の経験がないのに!

お疲れ様でした。