卒業記念エッセイ(入川)

 遅れに遅れまくったエッセイです!やるぞー!魂けずって、いや魂本体(©奥村さん)で書きます!それではゴーゴー!

 

21グラムのあとがき

広島大学文学部人文学科4年

入川誠央

 

 わたしは海のある町で生まれた。
 愛媛県の南に位置する宇和島市である。記憶のなかのその海には、生命の起源とかいう大仰さを感じさせるものはどこにもなく、ぼんやりとした薄暗い波間に、よくクラゲの死骸とゴミがただよっていた。そんな海でも、昔から嫌いではなかった。きっと、生命が生じるのはこんなごみごみとした小汚さからで、書き割りのようにはっきりとした発色の、きれいな海ではない。だからどっちかといえば、わたしはこっちのほうからやってきたのだ。そんなふうな思いがあって、しっくりきたからかもしれない。

 書き割り、という言葉に思い出す。
 精神科医春日武彦が人間の自己愛について述べた『自己愛な人たち』の一節である。他人を巻き込む自己愛人間の例として、アリス・マンローの作品「次元」よりロイドという登場人物を紹介していた。以下がその内容である。

ロイドのように「歪んだ」自己愛人間は自分の二重性を味わうことで、自分が奥行きのある豊かな精神の持ち主であると思い込もうとするのであった。そこに満足を得ようとする。が、その奥行きとは、芝居の書き割りにおける前景と背景のような単純さとわざとらしさによって成り立っているだけだ。彼らが複雑なように見えてもふとした瞬間に驚くほどチープで粗雑な印象を与えるのは、そうした理由があるからではないだろうか。*1

 この箇所を一読したさいに、いやな汗をかいた。これは、まさにわたしのことではないかと感じたからだ。

 生まれてからわたしはずっと、じぶんの好きなものがわからなかった。
 まわりにあわせて、スポーツをやってみたり、アニメをみてみたりした。小学生のときには姉たちのように読書好きになりたいとおもって青い鳥文庫を手にとってもみた。
 でも、ダメなのだ。「好き」のポーズをとってみても、好きになれない。もちろんいくらかたのしいときだってあったが、つねにどこか鬱屈と倦怠、そして違和感がつきまとっていた。嫌いなものばかりはっきりしていた。

 そんなに無理をして好きになるものではない、ときっと思われるだろう。でも、なにもないじぶんが耐えがたかったのだ。みんなのように確かなじぶんが欲しかった。「豊かな精神の持ち主」である、奥行きのある人間になりたかったのだ。そしていつも、書き割りを立ててはまた潰していた。

 わたしは大学生になった。なんとなく流されるように日本文学、それも現代文学を専攻することになって、恐れた。
 豊かな「好き」を持ち合わせたみんなのなかに、わたしのような偽物がまぎれこんでもいいのだろうか。なにか、さおさすためのものをこしらえなければと考えた。

 そのときに手にとったのがホラー小説だった。

 無性にむしゃくしゃしていたし、刺激が多ければ、飽き性のわたしでも退屈しないだろうと考えたからだった。そしてやはり、退屈はしなかった。涙が出たり、電流が走ったりもしなかった。けれど、次に手にとったのは同じ作者のホラー小説だった。そのままの流れでホラーをテーマに設定することを決めた。ホラーを読みつづけた。

 そして決定的だったのが、3年生のときの夏合宿だった。
 当時の院生である秦さんに「入川くんはこれが好きだと思う」といわれ手渡された本があった。『ゴシックハート』という本だった。小説家の高原英理による評論集であり、この本にはかんたんにいってしまえば「暗いもの」を求める心性が紐とかれている。そのなかでホラー小説を求める心についてもさまざま述べられており、以下はその一部である。

何か先にないか、見たこともない驚愕と戦慄はないか、と、ひたすら求められてならないのは、嘘臭くて粗雑な、きめの粗い、約束事と慣習に慣らされた、驚きを忘れ去った、堕落した今の自分の意識への不満があるからなのだ。*2

 そうだと思った。わたしはわざとらしく偽られた、チープで嘘臭く、粗雑な等身大のじぶんが大嫌いで、はてには殺してしまいたかったのだと気づいた。そんな「嫌い」を入口に、現実に対抗する凶器として、わたしはホラーを「好き」になったのだ。だから堂々とホラーを愛した。そして卒業論文でも、現代のホラー小説をあつかった。

 さて、くどくどと述べてきたが、これはもちろんわたしに限った話ではない。自覚のあるなしにかかわらず、あらゆるひとがもつ好悪にも、以上のようななにかしらのプロセスがあるはずだ。そして、読書はそのプロセス——そして読者という個人そのものを明らかにするのではないだろうか。

 読書は能動的なおこないであり、読んで感じた思いや好き嫌いとして、そのひとだけがもつ固有の考えや背景が引きずりだされる。なにかの本に書いてあったような気がするが、読書において鑑賞者は時代と個人とを背負って、作品と対決することになるのだろう。だからこそ、否応なくじぶんについて考えることになる。じぶんの「魂」とでもいうべきものの輪郭が明らかにされる。

 その「魂」とやらは、生まれたときから存在していたのか。これも違う。構築されたものであり、あとがきされたものだ。なにも好きになれないわたしがいたからこそ、わたしはホラーを好きになれたのだ。わたしにとって読書とは、文学研究とは、生きることの肯定だったのだといまになって思う。そして現代文学研究会は、それを教えてくれた場所だった。いくつものプロセスを積みあげ、織りあげられたみんなの生に触れ、じぶんの生に触れられる場所だった。

 魂の重さは21グラムだという。むろん嘘だろうと思う。そもそも魂など存在しないだろう。現代ホラーの創始ともいえるメアリー・シェリー『フランケンシュタイン』などの作品を下敷きにし、人間の思考や自意識をテーマに、伊藤計劃の遺稿を引きつぎ円城塔が完成させた小説『屍者の帝国』。そこではひとつの答えとして人間の意識の正体が語られるのだが、それはすごく単純なもので、だからこそリアルに感じられる。次は同じく、『屍者の帝国』の終盤における一節である。

問いばかり。
問いばかりだ。
かりそめの答えは砕け、問いばかりが残された。*3

 いちどは手に入れたと思った答えも、つねに暫定的でありいずれは崩されるかもしれない。ホラーも文学も、好きになれたと思い込んでいるだけで、いままでの書き割りと違う保証などどこにもない。あきれるほどに単純で、チープなものによってじぶんはつくられ、分けられ、変化し、忘れていき、なにもわからず、なにもできず、大状況の波に流されるまま死んでいくのだろう。なんだか、そう思えてしまうときもある。

 だけど、かりそめでも答えは確かにあったのだといまのわたしはいいたい。もう戻ってこないけれど、現代文学研究会での日々があったからこそ、わたしは一瞬でも、じぶんがつくりあげた「魂」の輪郭をとらえることができ、また生きていこうと思えている。ひとりでは決してできなかった。

 だからこれからも、文学を凶器にして、現実に日々たちあらわれるあたらしい問い、じぶん自身にむかっていく。間違いでも勘違いでも櫂にして、前へと進んでいく。そしていずれは、わたしもまた、あの猥雑な海にきえるのだろう。

 ☆

 これにておしまいです!トリがこんな厨二病全開のイタい文章でごめんなさい!みんなエッセイがうますぎます!天才!ちょっと泣いちゃいました!会えなくなるのがさみしい!でも案外すぐに会える気もしています!おすすめの本とかおいしかったごはんとか週一くらいでおしえてください!また読書会もしましょう!鈴木さんもおっしゃってましたがテクノロジーがあるので!オンラインでもオフラインでもできます!ぼくのおすすめは矢部嵩の新刊『未来図と蜘蛛の巣』です!ごはんは五右衛門のパスタがおいしかったです☆

 それではさいごになりますが、お世話になった有元先生、先輩、後輩、四年生のみんな、ほんとうにありがとうございました!
 現代文学研究会のみなさんのことがとってもとっても大好きです!ぼくにとって研究会の日々は人生最良の時間でした!ぜったいにわすれません!またどこかであいましょう!

☆いつもポケットに文学を☆

 

*1:春日武彦『自己愛な人たち』(講談社現代新書、2012年6月、108頁)

*2:高原英理『ゴシックハート』(ちくま文庫、2022年10月、58頁)

*3:伊藤計劃円城塔屍者の帝国』(河出文庫、2014年11月、486頁)