エッセイというものを書くのは初めてなので、何を書くべきなのかさっぱりわかりません。悩んだ結果、卒業論文のためにひたすらミステリ評論を読んだ成果として『十角館の殺人』のエラリイの如くミステリ談義から始めようか、それとも某省エネ主義の探偵のように文章に狂歌を仕込もうかと迷走し始めましたが、彼と同様に黒歴史になりそうなので止めました。我ながら英断だと思います。
……などと、更新が遅くなってしまった言い訳はここまでにします。遅くなってしまい大変申し訳ありませんでした。
そういえば合宿の時もこんな感じでしたね。思い出して少し懐かしくなってしまいました、というのはここだけの話でお願いします。
『未来の古典』の読書会に向けて
広島大学文学部人文学科4年
關琴乃
全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典になっていく。
いつの日か、現在の私たちも、未来の誰かの古典になるのだろう。
上の引用は、米澤穂信『氷菓』(KADOKAWA、2001年、140頁)より。愛蔵版〈古典部〉シリーズ『氷菓・愚者のエンドロール』の箱の内部にも書かれている、とても印象的な文章です。そしてここで注目したいのは「主観」という言葉。私は、卒業論文を書く中で「主観」というものについて悩むことが多々ありました。いえ、文学部に入ってからずっと悩んでいるように思います。「文学研究って何するの?」「文学って結局は主観でしょ?何の意味があるの?」……もちろんそれほど直接的な言葉ではありませんが、類似することを悪意なく言われる機会は少なくありません。
私の好きな本格ミステリというジャンルにおいても、客観性と論理性はとても重要です。なんといったって諸説ある定義の中で共通するのは「謎とその論理的解明」ですから。ですが生きている人間が謎を生み出す以上、結局は感情や主観が混ざることになり、それが謎を解く手がかりとなっていきます。「ミステリでは人間を描けない」とよく言われますが、私がミステリを好きな理由の一つは、そうしたミステリの論理から零れ落ちてしまったものこそにあります。誰のどんな思いから謎が生まれたのか、謎という非日常を前にした時にそのひとは何を思うのか、どう行動するのか、そして謎を解いた時に明らかになる人間味が──それが綺麗なものであっても醜いものであっても──とても好きなのです。そのひとの本質に僅かでも近づけることが面白い。小さい頃からそう感じながら本を読んでいるので、もしかしたらただ単純に人間といういきものが好きなだけなのかもしれません。
とにかくここで言いたいのは、客観性や論理性が重視される世の中でも、結局生きていく上では主観を無視することは不可能であり、かつ、主観的なものにも価値があるはずだということです。少なくとも私はそう思いたい。そして歴史的遠近法の彼方で失われた誰かの主観の跡地が古典であり文学なら、文学を学ぶことは人間を学ぶことに繋がるのだと思っています。
そんなことを考えていると、ふと、この現代文学研究会もまた「誰かの古典」であり「未来の古典」なのかもしれない、と思いました。在籍していた学生の主観性が卒業により失われてしまっても、現代文学研究会という古典の中には確かに何かが残されている。そうして先輩方から脈々と受け継がれてきたこの研究会にまた誰かが加わり、新しい変化、新たな解釈を与え、そして再び次の代へと繋がっていく。私がこのブログで「儚い羊たちの祝宴」の読書会の様子を知り広島大学に興味を持ったのも、きっとその流れの中にあります。この研究会そのものが一つの物語であり古典であり、私たちは大学生活という名の文学研究をしていた、というのは、いささかロマンチシズムがすぎるでしょうか?
……とまあ『さよなら妖精』風に格好つけてみましたが、もしそうなら、楽しみに思います。だって物語は一人で読んでも面白いですが、皆で意見を交わす読書会はもっと面白いので。皆さんにとって研究会で過ごした時間がどんなものだったのか、今はどう思っているのか、またいつかお聞きできたら嬉しいです。というわけで、来たる『未来の古典』の読書会の日まで、私もなんとか頑張っていこうと思います。
最後になりましたが、有元先生、先輩方、四年生のみんな、そして後輩の皆さん、今までありがとうございました。とても楽しい研究会だったので寂しいですが、寂しいと思えることが、どこか嬉しくもあります。