卒業記念エッセイ(太田)

 3年生の皆さんからエッセイの依頼を受けたので書きました。記念エッセイは院生の先輩方だけが書くものだと思っていたのですが、今回は4年生も、とのことでしたので、執筆いたしました。

 

書けない私

広島大学文学部人文学科4年

太田百春

 

 既にエッセイの案を3つほど考えていたのですが、何を書いても間違っている気がして、今、これが4案目です。最初の1つは、自分にとって文学研究とは何か?という問いについて書きましたが、抽象的すぎて伝わりにくいと思い、ボツにしました。あとの2つは、日常の話から文学研究の話へと膨らませるように書きました。しかし、日常の話が膨らみ過ぎて、文学研究の話がほとんど書けていない上に、2つの話を違和感なく繋げるのがなかなか難しいのです。とてもエッセイなんて書けないと思いました。

 先に掲載されている先輩方のエッセイはもう読まれましたか?面白く引き込まれる、素晴らしい文章です。これから後、他の方々が書いたエッセイも掲載されると思います。これまたいい文章なのでしょう。周りが優秀なのでますますやりづらいです。

 研究会報告のブログ更新をしていた3年生の頃も、私は頭を抱えていました。同級生の皆や先輩方は、ブログの冒頭にクスッと笑えるいい感じの小話を入れています。私にはそれができませんでした。時候の挨拶しか書けません。変に考えすぎて、無難な事しか書けなくなってしまうのです。

 卒業論文も、私は文量が少ない方でした。これもいらない、あれもいらないと切り捨ててしまい、残らないのです。必要な部分まで、気に入らないという理由で削除してしまった気がします。

 上手く書こうと気負っているのが良くないのだと、自覚しています。心の赴くまま書けばいいのでしょうが、何を書いても嘘になるような気がするのです。文章を書く時だけでなく、人と話す時も同じです。いくら言葉にしても伝えたいことそのままには伝わらないのだ、と思うことがあります。

 色々言い訳して、人に伝えることを諦めているのかもしれません。多少ニュアンスが違っても言葉にする方がいいのかもしれません。分かっているのですが、どうしても間違いのない言葉を自分で探し、見つけたいのです。文法的な問題は別にして、言葉選びに間違いや正解は存在しません。しかし、私にとって、その時の正解となる、納得できる言葉が確かにあるのです。その感覚を信じていいのだと、文学を研究する中で考えるようになりました。

 当たり障りのないことを書いて済ませようとする態度も、自分を偽っていると言えるのですが、本当に大事な部分に嘘をつきたくないので、いつも通りの短い文章になってしまいました。文学研究とは何か、日常と文学研究の共通点はどこか。私にとっての正しい答えが出せるようになるまで、もう少し考えさせてください。考えすぎて1周回った頃に答えが出るのだと思います。

 いつも熱心で頼りになる仲間と先生に恵まれ、文学という自分が選んだ学問を好きなだけ学ぶことができたこの時間は、実に贅沢でかけがえのないものでした。学ぶこと全てが楽しいと思ったのは初めてでした。これだけは間違いでも嘘でもありません。