修了記念エッセイ(奥村)

 3年生から「秦さんと矢吹さんみたいな感じで記念のエッセイを書きませんか」と言われたので書いてみました。いや、言われたから書くというような、ぬるい気持ちでは書いてはいない。言われなくても書いている。命がけで、魂を削って書きました。というか、そんな魂の削り粉のようなものではない。魂です。魂本体です。
 アップロードが遅くなったのはエッセイの類を書いたことがなく筆が遅いのと、引っ越しなどでバタバタしていたというのもあるのですが、いざアップロードの段階になって携帯のメモに書いていた文案をPCに移して読むと、長いと思っていたものが思っていたより短かったからです。画面の大きさでこれほど印象が変わるとは、マクルーハンもびっくり。なにが命がけだよ。そんなわけで文字数が矢吹さん秦さんの二分の一くらいの長さしかないことに気づき、急遽書き足しました。偉大なる先輩方に比べ、俺の魂はあまりにも小さい……!
 これがゴホンダイコクコガネの角の長さなら天下を取れるのではないかと思われるほど言い訳が長くなりましたが、畳の目を数えるくらいしかすることがないほど暇な方や、自ら進んで己に苦行を課したいストイックな方はよかったら読んでみてください。

 

読んでいない時間が読者を作る

広島大学大学院人間社会科学研究科博士課程後期

奥村尚大

 

 数年前、テレビで中国のゴッホという特集がやっていた。観光客向けに有名な絵画の贋作を作る村が中国にあるらしく、そこで何十年もゴッホの贋作を作り続けてきた老人の話だった。その老人はフランスかどこかのテレビ局だか映画制作会社の企画で、ルーブルで本物のゴッホのひまわりの絵を見ることになる。老人がひまわりの絵の前で涙を流している場面のあと、一日中絵を見つめる姿が流れる。

 こんな鑑賞は、ゴッホは想定していなかっただろう。それに、文学研究の目からみれば、それほどまでに自身に引き付けた鑑賞はある意味誤読に近いかもしれない(何十年も贋作を描いたからわかるというのは研究の論拠にはならないだろう)。だが、これこそが豊かな鑑賞だとも思う。妥当性がなくとも豊かになる瞬間は確かにあると思う。もはやモデル読者も経験的読者も読みの妥当性も誤読もへったくれもない。そのような境地があると思う。

 何十年もゴッホを描き続けた人間が見る本物の絵。絵を見て、どのようなことを感じたのか。自分には全く想像できない。文字通り人生をかけた人間だけが許される鑑賞であり、どのような表現をもってしても共有不可能なものだろう。自分の人生にそのような経験が訪れてくれるのだろうかという疑問がよぎると、胸の底がぞっと寒くなるようだった。自分は色々な作品を読んできたつもりでいたが、真の意味で読めたと言える作品はまだないのかもしれない。

 文学研究は学問である以上、読解や評価にもある程度の再現性が求められる。解釈には根拠が必要だし、一応は事実を積み重ねていかなければならない。こうした人生をかけたような個人的な鑑賞は論文にするには向かないだろう。そもそも主観的で説明不可能なものだ。言葉にすればかえって陳腐になる。

 研究の動機やきっかけとして作品への感動があるのは否定できない。しかし、幅跳びでどれほど高く跳んでも、前に進まなければ記録にならないように、鑑賞と研究は似ていても微妙に競技が違うのだろう。どれほど作品に没入しても、どこかで相対化しなければ研究にならない。文学研究の目的は無数にあると思うが、作品評価を行い優れた作品を発見することは重要な目的の一つであると思う。それなのに、説明不可能な没入が許されないというのは、研究上の重大な問題であり矛盾だと思う。

 こうした鑑賞と研究の矛盾に対する答えは自分の中で出ていない。論文を書く迷いになると思って一旦は棚上げしていた。しかし、心のどこかでひっかかっていたからこそ、中国のゴッホにこれほど惹かれるのだろう。

 ただ、なんとなく直感しているが、自分の人生をかけた切実な観賞体験は読んでいない時間から生まれると思う。年を重ねるにつれて、同じ作品でも若い頃と注目するところが変わってきた。たとえば、学校を描いた作品でも、昔は大抵学生側から見ていたが、非常勤講師をしたせいか最近は教員の方に肩入れして見てしまう。『坊っちゃん』の授業がうまくいかない場面など、昔は笑って読んだが、今ではどこか笑う気持ちになれない。あるいは、それまでは単に面白いとしか思わなかったが、卒業論文の口頭試問前の緊張の中で読んだ『ナンセンスの絵本』ののん気さは救いのようにさえ感じられた。人生の儚さとちっぽけさが描かれているようで、かえってどんな失敗でも笑い飛ばせるような大らかな気持ちになった。

 別に何かにストイックに打ち込むべきだというわけではない。どれほどダメでも怠惰でも、かえってそれが良い鑑賞を生む瞬間があると思う。憧れであれ、共感であれ、かえって弱みや失敗や苦しみが読みを深めてくれることがある気がする。そう考えると、弱みも苦しみもそう悪いものではないように思える(同時にそう思わせてしまうのが物語の怖さだとも思う)。
 だが、こうした気持ちも研究の発端にはなっても、論拠にはなってくれない。それどころか、研究が進むにつれ、自分ひとりの主観はどんどんと言語化され共有可能なものに加工され、最初の思いからはどんどん離れていく気さえする。それは悪いことではないと思うし、その抽象化の作用にこそ研究の強みもあると思うが、どことなくさびしい気もする。

 こんな鑑賞と研究の違いについて、うだうだじたばたと考えているが、その矛盾が解けないとは思っていない。なんとなく、いずれ自分の中で答えが出るような気がしている。べつに強い根拠があるわけではない。むしろ、根拠としては、ささやかで、とても弱いものだ。

 昔、興味本位で広島駅前の占いに行ったことがある。サルトル井上ひさしを足して二で割ったような印象のおじさんが占ってくれた。はっきり言って占いは信じていないし、押し付けがましく断言されても信じないぞと思って行ったからなかなか迷惑な客だったと思う。ただ、意外にも断言するような口調ではなく、こちらの気になることを聞いて、「この線があるからこんな感じかも」と、手相の線から解釈を伝えるだけで、アドバイスや助言というより淡々と書いていることにコメントするような感じで、これが話術かとなかなか好感を持った。

 ただ、二つだけ断言されたことがあった(ほかにもあった気もするが、二つだったと言い切った方がドラマチックな気がするので、そういうことにしておきたい)。一つは「モテるでしょ?」と言われた。これには「全くモテません」と返した。占い師は気まずそうに首をかしげていた。前から信じていなかったが、これ以来、占いや統計の類は心底信じていない。もう一つは、「この線があるから、90歳で人生の最後に集大成ともいえるものを書く」と言われた。そう聞いて、その日まではとりあえず研究を続けてみようと思った。本当かどうかはさておき、人生の最後に楽しみがあるのはそう悪いことではない。それに、理系の研究者のピークが若いときにあるのに対し、人文学の研究者のピークは晩年にあるという統計をどこかで見た記憶があるし、今はそれほどでもいずれ何か発見できるかもしれない。そう思った。「まあ、当たらなくても、その頃には僕はいませんから」と占い師は笑いながら続けた。
 全く無責任なものだとも思うが、ある意味では謙虚なのかもしれない。そこまでこちらの人生を当てられても困るから、それくらいがかえって良いのだろう。当たらなくても、面白いと思えれば十分かもしれない。

 こんなわけで、我ながら単純だが、占い師の作ってくれた物語のおかけで、今はわからなくても、いずれはわかるかもしれないとのんきな気持ちでいる。ただ、自分がなにもやっていないのに占いが外れたと言うのもフェアでない気がするから、少しでも手相の良い読者であるためにささやかでも研究を続けていこうと思っている。
こうなると人生のために物語があるのか、物語のために人生があるのかわからない。でも、割り切れないのは、いかにも文学部らしい結論な気もする。

 結局、研究であれ、鑑賞であれ、良い読者であることが重要なのだと思う。読者とは単に読むことで成立するのではなく、人生をかたむけ、真剣に読み、様々な条件が合致して、それでようやく成立するものなのだと思う。時にモデル読者としてテクストの指示に忠実に読み、時に経験的読者として自身の人生を入れ込んだ過剰な解釈で読み、二つの立場の往還を繰り返しながら読者としての自身を作り上げ、両者の混ざり合った境地へと向かう必要があるのだろう。その意味では、一度文学に魅せられてしまった人間には、読んでいない時間はないのかもしれない(なにも文学に限った話ではないかもしれないが…)。読んでいない時間も、まだ出会っていない作品の良い読み手として作り上げられ続けているのかもしれない。知らず知らずのうちに。

 手相は、自分に合う物語を探し続けなければならない本とは少し違う。他人の手相は他人の人生だ。自分の手相にぴったりの読者はやはり自分しかいないだろう。自分の人生のことを書いているからこそ重みがある。占いは信じない主義だが、テクストとしての手相は信じたい気もする。自分の人生を描いた唯一の虚構作品として。唯一自分をモデル読者とするテクストとして。いつか手相のようにしっくりくるテクストに出会いたいと思う。あるいは、もう出会っているかもしれないが。

 ところで、手相の読み方はわからないから占い師に解釈を聞くしかない。自分に向けられたテクストなのに、読むのは他人とは不思議なものだ。
 案外、文学研究の値打ちとは占い師と同じなのかもしれない。線を指差して注釈や解釈や作品評価を伝えるが、結局本当に生き、物語を読むのは相手だ。読んで見せるが、後は知らない。気に入らなければ、忘れてください。