2022年10月25日研究会報告

 こんばんは、三年の境です。ようやく見上げる空が秋らしくなってきたと思う間もなく吹く風に冬の訪れを感じる今日この頃です。本日、10月25日の研究会は今年度三回目となる「三島由紀夫『近代能楽集』全8作を読む/観る/語る 関美能留講演会」の「卒塔婆小町」の回でした。今回も、関さんにお話を伺った後、舞台の録画を鑑賞し参加者の質問にお答えいただきました。

 

 三島由紀夫の「卒塔婆小町」は『近代能楽集』の“傑作”として名高く、『近代能楽集』のなかで最多の上演回数を誇り文学研究も非常に盛んです。今回私は研究会内で共有される事前学習用の資料を作成する係だったのですが、先行研究が多すぎてまとめきらず拙い資料になってしまい大変歯がゆい思いをしました。その中に、「「卒塔婆小町」が上演されるとき、一番問題になるのは過去にさかのぼるシーンである」という指摘があったので、私は関さんがどのようにそのシーンを演出するのかとても楽しみにしながら本日の研究会に挑みました。

 関さんもそのシーンは様々な工夫をほどこしてきたようで、録画を鑑賞する前に今までどのような演出をしてきたか二例ほど口頭で説明していただきましたが、そのどちらも戯曲を読んだときには考えもしなかったような驚きの演出で面くらいました。今回観る舞台の演出はその二例よりは「ストレート」な演出だと関さんはおっしゃいましたが、それでも、「邯鄲」から引き続き使用された舞台装置である舞台全体をしめる発泡スチロールや、女優さんの着物を効果的に使った演出は鑑賞していて「そう来たか!」と感じさせられる巧みなものでした。個人的な感想にはなりますが、老婆が「――――もう百年!」と叫び、詩人がとうとう死んでしまうシーンでは鳥肌がたち感動しました。『近代能楽集』を一読したときには「卒塔婆小町」が傑作だというのが正直よくわからなかったのですが、「邯鄲」「綾の鼓」、そして「卒塔婆小町」と順番に演劇を鑑賞してみると、なるほど確かに演劇として優れてるのは「卒塔婆小町」なのかもしれない……と思いました。(ちなみに「綾の鼓」がすきです……)

 

 鑑賞し終わり、関さんに少しお話を伺った後、研究会メンバーからの質問にお答えいただきました。

 冒頭の、老婆が煙草を拾うシーンを線香に変えていることについて「すでに詩人は死んでいて、老婆は詩人の葬式をしている」「詩人の回想ではなく、小町の回想としての「卒塔婆小町」」というイメージを持っていたというお話を聞いた時には自分の「卒塔婆小町」のイメージががらりと変わりました。そのほかにも、関さんが実際にパジャマで夜の公園に散歩しにいったとき煙草を拾う老婆を見かけた話など、大変貴重なお話をたくさん聞かせていただきました。質問者さんの感想や意見にも驚かされ、自分の勉強不足や考えの至らなさに反省しつつも、非常に充実した時間をすごすことが出来ました。本当にありがとうございました!

 

 去年の演習の時から手元にある『近代能楽集』は何度も読み返したり持ち歩いたりしているせいでカバーがすこしぼろぼろになってきています。正直この作品とこんなにも長く付き合うことになるとは思いませんでしたが、今では来月の「葵上」の講演が待ちきれません。