2024年4月16日研究会予告

引き続き、新4年生な入川です!

 

2024年4月16日研究会予告

 

次回は毎年恒例のブックトークになります。発表するのはわたしたち4年生と院生(M)の先輩です。だれがどんな本を紹介するのか、楽しみで待ちきれません(じぶんはなんの本にしようかな……)。

余談になりますが、わたしがブログを担当するのもこれでおしまいになります。1年間ありがとうございました!

当初は「ブログってなに? そんなのあったんだ?」くらいのふわふわ認識だったのですが、更新する側になるとなんだか気になってしまい、暇な時間を使ってはさかのぼり、なぜか最後にはほとんどの記事を読みおえてしまっていました。いま思えば、この研究会のもつおもしろさの空気(?)みたいなものが、文面にただよっていたのかも……。

そういうわけで、えもいわれぬ魅力に引き寄せられたじぶんのようなROMせ……声なき読者がこのブログにはたくさんいるはずだし、これからもいつづけるのだろうなと思います。もちろんわたしも読みつづけますので、あなたもきっと読んでくださいね(コメントもください☆)。

では、またどこかで!

2024年2月6日&4月9日研究会報告

こんにちは~、さんね……新4年の入川です!

とうとう新年度になってしまいました。外にでると活気にあふれた新入生のみなさんがたくさんいて……ま、まばゆい! 花粉?もあいまって目がしぱしぱするので、サングラスの導入を検討中です(うそです)。

 

2024年2月6日研究会報告

 

まずは飛んでしまっていた2月6日の研究報告からさせてくださいm(__)m

前回の研究会では、4年生の先輩方の卒論要旨発表がおこなわれました。

このゼミにおける研究の集大成ということで、発表を聞いていただけのこちらもなぜかドキドキしてしまいました。しかしさすがは現代文学研究会、いままでの学びに裏打ちされた説得力のある論が提出されており、実際に完成した論文を読んでみたいと思わされるようなすばらしい発表でした。

後輩へのアドバイスもいただき、今度はじぶんたちの番だなあ、あんなふうにちゃんとできるのかなあ、と気が引き締まるようなこわいような……いやいや、偉大な先輩をみならって、果敢にがんばっていきたいと思います。

卒業された先輩方、ほんとうにありがとうございました!(今後もブログ、みてくださいね!)

 

2024年4月9日研究会報告

 

さて、続く今回は新年度はじめての研究会でした。

新3年生のかたがたも加わり、自己紹介、予定の確認、係の引き継ぎなどをおもにおこないました。

ついに先輩(!)になってしまったのですが、中身は不定形どろどろの未熟者のままなので、後輩のみなさんともお互いに助け合っていけたらと思います。

これからよろしくお願いします!

2024年度の始動!

皆さん、お久しぶりです。
有元です。

矢吹さん、秦くん、長編のエッセイをありがとう!
二人と過ごした歳月を思い出しながら拝読しました。
皆さん、どうぞコメントを。

さて、新しい春がまた巡ってきました。
新年度の初回の研究会は明日(4/9)です。
B153教室でお会いしましょう!

博士課程修了記念エッセイ(秦)

 

 矢吹文乃さんに「博士課程修了記念のエッセイを書きましょう」と誘われたので、私も書いてみました(嘘をついているのはどちらでしょうか^ ^)。
 まったく違う曲調の「snow drop」「forbidden lover」連続リリース時のL'Arc〜en〜Cielよろしく、一日あけてアップロードしてみました。軽い気持ちで読んでください。


「また会いましょう」の引用

広島大学大学院人間社会科学研究科博士課程後期

秦 光平

 

 私の誕生日は12月10日で、これは小説家・中井英夫の没日であり、あの『虚無への供物』(1964年)が開幕した日付でもあります(ちなみに、寺山修司の誕生日でもあったりします)。ひそかな自慢であるこの偶然に乗じて、彼の文章の引用からはじめてみることにします。エッセイ「幻想庭園」(1971年)より、彼自身にとってのバーネット『秘密の花園』(原書:1911年)について書かれた箇所から。

 

子供のころ、母の訳してくれたバーネット夫人の『秘密の花園』に読み耽ってからというもの、私にはいつかこの地上のどこかに、この世ならぬ神秘な花の咲き乱れている庭があるという確信が棲みついたらしい。それも突飛な場所ではなく、ふだん見慣れてよく知っているところに、ある日思いもかけぬ小さな入口が見つかり、猫のように体をしなわせて潜りこんでみると、妖しい色の花がいちめんに咲いている人外境に突然出る筈だといういわれのない確信である。*1

 

 中井のように本物の「秘密の花園」を幻視するわけではないけれど、じつは私も常日頃から『秘密の花園』チルドレン(呼び方はかなり適当です)を探していたりします。小学生の頃に児童向けのダイジェスト版(司修の絵がとても鮮烈でした)を読んで以来、同作には勝手に人生を伴走してもらっている気でいるのですが、とくに心に留めているのが次の言葉。廃れた花園を再生させる子どもたちが、まさに魔法のような出来事を次々に実現させていく中で発する台詞です。

 

たぶん、魔法の第一歩は、『きっといいことが起こる』と口に出して言ってみることだと思うんだ。実際にそういうことが起こるまで。*2

 

 この箇所を読んだときに喚起された感覚をどう表現したいいか......いまだに完璧な説明は用意できていないのですが、要するに、なんだかどうしようもない状況に置かれてしまっているかのような窮地でも、ちょっと見方を変えるだけで「いや、別にぜんぜん大丈夫やん?」と思えてしまうような感覚というか。一見「出口なし」の閉塞であっても《ふだん見慣れてよく知っているところに、ある日思いもかけぬ小さな入口が見つか》るものなんだという不思議な楽観をもたらしてくれるような、そういう感覚だったのですよね。


 これはある種の「異化」だよな──と、つい専門用語を持ち出してしまうのは、曲がりなりにも博士課程で勉強した人間の性でありましょうか。私たちが難しい文学理論、用語を理解しようと試みるときいつも傍らにあった本をここでも開いてみると、《異化とは、「日頃見慣れた世界からその日常性を剥ぎ取り、事物に新たな光を与えること」、つまり、すぐに分かるありふれた普通の日常言語を、技巧的に、異常な非日常的な言語に変えることである》*3。言葉/表現の工夫(マジック)によって、一見すると面白味のない、ありふれた物事の新たな一面を見ることができるようになる作用、とまとめて間違いではないでしょう(間違いではないですよね? 研究会のみなさんに一応、確認しておきたいところですが)。


 この異化効果(魔法)は、自分にはとても重要で、というのは、私のように打たれ弱い人間は、うっかりすると「どうせ駄目だろう」という諦念にすぐ呑み込まれてしまうから。端から見れば大したことのない悩みであったとしても、抜け出すのは簡単ではないもの。だから、落ち込んだ気持ちから立ち直るための支えを、その心の動きのサンプルを、ひとつでも多く増やしておきたい。だから、述べているような異化の感覚をもたらしてくれる言葉・作品――『秘密の花園』チルドレンを探してしまうというわけです。


 さらに話をふくらませると、自分にとって読書をする意味、ひいては現代文学研究に取り組む意義も同じところにあります。私の考える読書の素晴らしいところは、「誰でもできること・いつでもできること・どこでもできること」の三点セット。このように言うと、読むために特別な技能がいるわけでもない(実はそうじゃなかったりもするわけですが、それはまたあらためて*4現代文学をわざわざ「研究」の俎上に載せる意味はあるのか? と不思議に思われるかもしれません。けれど、その不思議こそが私には興味深くて、すなわち、どんなに「誰にでも読める」ように見える作品であっても、「自分の読みは自分にしかできない」ということ。「素朴」だと思う感想の中に固定観念があって、「共感できる」意見の後ろに時代背景があって、「当たり前」だと思う言葉のひとつひとつに必然性があって、だからこそ、急いで読み飛ばしてしまいそうになっても立ち止まってみたほうがいいことも多くて、そうやって立ち尽くした果てではじめて作品の深みに触れることができて――これらのことに気づかされる体験の連続であった現代文学研究は、大したことのない存在なのかもしれない、情けない人間なのかもしれない、社会的立場の代わりだっていくらでもいるのかもしれない、にもかかわらず、自分は自分しかいないということ、この人生を生きることができるのはこの自分しかいないのだということに重なっているような気がして、それが私には面白く、大切なことだったのです。


 だから、私にとって現代文学研究会のみなさんと過ごした日々(研究発表、読書会、映画鑑賞会、合宿、飲み会)は――大袈裟に聞こえてしまうかもしれませんが――私は、私たちは生きているぞと、生きて、ここにいるぞと、わざわざ確認するまでもなく感じさせてくれるような時間に違いありませんでした。やたらと気弱な私に現代文学研究会がもたらしてくれたのは、ちょっと見方を変えるだけで、この人生の固有性・複雑性に気づけるような『秘密の花園』的異化効果だったのです。毎週本の話をして、本当に楽しかったなあ。そして、寂しくなっちゃうなあ(飲み会の一角だけ新本格以降における「ミステリ研」みたいな様相を呈することもありましたね。マニアックな話ですが……)。


 さて、かくも楽しい時間を過ごした直後の春だから、迂闊にも「もう会えなくなってしまうのでは?」という不安に襲われている方もいらっしゃるかも。ですが、ここは私が代表して、『秘密の花園』チルドレン的物言いを発揮させていただきます。現代文学研究会に在籍していた7年間に読んだ作品のいくつかから、誰かと再会する場面をとくに読み返してみたところ、「また会うこと」は意外にも、実に簡単なことのようなのです(そういえば『秘密の花園』自体、生き別れの父親に再会する物語でもあったのでした)。


 たとえば、「書棚に並んだ本と本が人知れず新たな本を産み、勝手に増えていく」設定を起点にユーモアから戦争文学にまで変貌していく小田雅久仁『本にだって雄と雌があります』(2012年)より、よく本の話をしていた友人に意を決して連絡する場面(文章の密度に圧倒されました。自分のためにある本だと、私を含め数多の読書人を誤解させていることでしょう)。

 

誰かに訊いてみようか。いや、誰か、などと考えるふりをするには及ばない。もう百年も前から決まっているのだ。私の知人の中で、もっともいい読書家であるのはもちろん早苗ちゃんである。面白い小説を発見することにかけては、十代のころから早苗ちゃんのほうが一枚も二枚も上手だった。よし、またそこから始めようじゃないか。
 私は携帯電話を取り出し、半年ぶりぐらいに早苗ちゃんにメールを打った。
  “ひさしぶり。偶然にも今イトウ書店という本屋におります。最近どんな本が面白い?”
 返事は一分で来た。
  “先週ひさびさにヒットが出ました。タイトルは――”*5

 

 また、柚木麻子『本屋さんのダイアナ』(2014年)より、「本が好き」という一点で仲良くなったのに、大人になる過程のすれ違いで疎遠になってしまった友達に再会し、失った日々を取り返すかのような場面(本当に感動して、ガストで読んだ際には号泣しました)。

 

「とにかく、走って!! 今、行かなきゃ絶対に後悔するんだから!」
 その口調は小学校の頃と同じで、ダイアナはどきりとする。誰もが認める優等生で、頼れる自慢の親友、神崎彩子だった。彼女はあの日のままだ。それならば、自分だって変わっていないのかもしれない。*6

 

 あるいは、増田みず子『水魚』(1990年)より、老齢の父親を置いて都会に出てきてしまった女性が、その父親との再会をふいに明るく想像できるようになる場面(書評などもあまり書かれていないようだけれど、本当にいい小説でした。地元の古本屋で見つけて、読んだ際にはジンワリ泣きました)。

 

佐知は急がなかった。できれば着くのをできるだけ遅らせたいくらいだった。時々足を止め、曜子の住む町の風景を入念に眼でなぞって、頭に焼きつけようとした。
 蜂郎に話してあげられる。地図も描いてあげられる。蜂郎はこの町の風景を知りたいだろう。美しい町として眼に焼きつけてしまおう。静かで落ちついた、立派な家の多い住宅地だ。道を歩いている人たちは、さっぱりとおしゃれなものを着て、明るい表情をしている。*7

 

 ……以上、博士課程にて「文献を引用しながら自分の考えを表現する」習慣が染みついてしまっているので、たった一言の「また会いましょう」を、引用とともに長々と語ってみました。大好きな有元先生、現代文学研究会のみなさんへの、私なりの感謝の伝えかたです。誠にありがとうございました!


 ということで、いつかまた会いましょう。苦しいときには、ちょっと見方を変えましょう。たぶん、私たちは大丈夫です。大丈夫だと思います。大丈夫って言わせといてよ。言っていこうよ。言っとくことにしようよ。

 

 

*1:中井英夫「幻想庭園」(『黒鳥の旅もしくは幻想庭園』潮出版社、1974年5月、19頁)

*2:フランシス・ホジソン・バーネット(土屋京子・訳)『秘密の花園』(光文社古典新訳文庫、2007年5月、378頁)

*3:西田谷洋『学びのエクササイズ 文学理論』(ひつじ書房、2014年4月、10頁)

*4:秘密の花園』については、ロイス・キース(藤田真利子・訳)『クララは歩かなくてはいけないの? 少女小説にみる死と障害と治癒』(明石書店、2003年4月。原書:2001年)の議論も外せないところ。

*5:小田雅久仁『本にだって雄と雌があります』(新潮社、2012年10月、307頁)

*6:柚木麻子『本屋さんのダイアナ』(新潮文庫、2016年7月、368頁)

*7:増田みず子『水魚』(日本文芸社、1990年3月、197頁)